悲しいけれど、それが現実 8
立ち上がろうとして、よろめいたイルカを支えたのはカカシの腕だった。
「イルカ先生!」
「な、なにこれ・・・」
ざあっと顔から血の気が引いていくのが自分でも解った。
「は、吐く・・・」
なのに吐けない。
「あー、始まっちゃいましたねー」
医者は気の毒そうにイルカを見遣る。
「毒が中和されるまで、ずっとその状態ですよ。地獄の苦しみですよ、大変ですよ」
さすがに冷静だ。
「命に別状はないけれど、その状態が治まるまでは気持ち悪さが延々と続くんですよねー」
「そ、うなんですか・・・」
もはや、医者が言っていることに頷くことしか出来ないイルカだ。
気持ち悪すぎて、何も考えられなくなってきている。
口元を押さえる手が自分の意思とは関係なく、微かに震えてしまう。
「イルカ先生・・・」
心配そうなカカシの声が耳元で聞こえた。
そうだ、カカシ先生・・・。
そういえば支えてもらっていたから、成り行きでカカシの腕の中にいる。
カカシの腕は、しっかりとイルカを支えてくれていた。
こんなときなのに少し嬉しくなってしまったが、すぐにその気持ちは掻き消えていった。
「むかむかする・・・」
ぐっと胸から喉元に何かが競り上がってくるような感覚がイルカを襲う。
しかし、そんな感覚がするだけで、実際には何もない。
医者の言ったとおり、厄介な毒らしい。
何度か大きく息を吸うと吐き気が多少は落ち着いた。
カカシの腕を借りて、椅子に座りなおす。
「症状の出始めは断続的なんですよねー。次第に、それが持続しっぱなしになりますから」
医者は、すらすらとカルテを書きながらイルカに説明する。
「一晩続きますからねー」
「・・・はい」
イルカは頷いてから、医者に訊いた。
「あの、先生」
「はい、なんでしょう」
「付き添いの人がいてもいなくても、この気持ち悪さは変わらないんですよね」
「全く変わりませんねー。ただ、気持ちの上では楽になるとは思いますが」
「だったら」
カカシの方を見ずに一気に言った。
「付き添いは必要ありません」
「イルカ先生、何を・・・」
抗議しようとするカカシを強硬に遮る。
「カカシ先生は忙しい方ですし、何より・・・」
そう、何より。
「た、ただの知り合いの・・・」
ただの知り合いで。
「知り合いの、上忍の方なだけ、なんです・・・」
カカシとイルカは特別な関係ではない。
友達でもない。
親友でもない。
家族でもない。
ましてや、恋人でもない。
単なる知り合いでしかない。
「そうなんですか?」
医者はカカシとイルカを交互に見る。
「そうは見えなかったんですけどねー」
特にカカシの方を見て言った。
「私には、お二人は・・・。いや、すみません。ご本人が、そう仰るなら付き添いは必要ないということでいいんですね?」
「はい」
イルカは強く首を縦に振る。
「大丈夫です、一人で」
「でも、辛いですよ」
「いいんです」
きっぱりと言い切った。
一晩くらいなら耐えれると思うというか、耐える。
今までの人生の中で考えられないくらいの気持ち悪さと吐き気だが。
命に別状はないのなら、付き添いはいらない。
一人で耐えられるはず。
また胸が、むかむかしてきたが、ぐっと堪えた。
「カカシ先生」
イルカの傍に佇んでいたカカシを見上げる。
「帰ってください・・・」
ニ、三度、カカシが瞬きをした。
イルカが何を言っているのか、解らないといった表情で。
現に口に出していた。
「イルカ先生、何を言っているのか解りません」
「だから、付き添いは必要ないんです。カカシ先生に付き添ってもらう理由はありません。病院に連れてきてくださったことには感謝しています。ありがとうございました」
一気に早口で捲くし立てる。
「もう帰っていただいて結構ですから。後は自分で何とかしますので、ご心配要りません。報告書の提出は明日しますし、連絡は病院からしていただけるでしょう・・・」
一刻も早くカカシにここから立ち去ってほしかった。
もう余り、我慢できない。
気持ち悪さが先ほどより増してきていて、額に冷や汗が浮かんでいる。
こみ上げてくる強烈な吐き気で無意識のうちに、ぎゅっとイルカはベストの胸元を握りしめた。
最早、カカシの顔を見ていられない。
見る余裕もなくなってきている。
この場に誰もいなかかったら、立って座って寝転びたい。
それでも多分、この状態は治まらないと思うが・・・。
「イルカ先生」
カカシの悲しそうな声がした。
「解りました。帰ります」
診察室の扉が閉まる音がしてカカシの気配がなくなった。
ほっと同時にイルカは我慢するのをやめたのだった。
次の日の朝。
ぐったりと憔悴するイルカの姿が、そこにあった。
目の下には隈ができて、顔はやつれている。
医者の診察を再び受けて、異常なしということで退院許可も出た。
受けた毒も、完全に中和されているというお墨付きで。
「はああ」
病院から出てイルカは深い溜め息を吐いた。
括っていた髪は乱れて肩に掛かっている。
手には額宛とベスト。
気持ち悪さのあまり、体から毟り取ってしまっていたのだ。
髪紐はポケットに入れてある。
一睡もしていない。
「本当に地獄だったな」
ぽつりとイルカは呟いた。
「地獄の苦しみってのは嘘偽りなく真実だった・・・」
はあ、ともう一度、溜め息を吐く。
「家に帰って眠りたいけど」
報告書を出さなくてはならない。
「受付所に行くか・・・」
任務から帰ってきた次の日は通常、休みなので今日は報告書を出しさえすれば家で休める。
「ちょっとだけ頑張ろう」
重い足を引き摺って受付所へと歩き出す。
顔は俯きがちで地面ばかりを見ていた。
「ん・・・」
そのイルカの行く手を阻むものがあった。
地面を見ていたイルカの目に誰かの足が映る。
誰だろうと、ゆっくり視線を上げると、そこには。
カカシがいた。
イルカを心配そうに見つめる眼差し。
「疲れきってますね、イルカ先生」
その声は優しかった。
悲しいけれど、それが現実 7
悲しいけれど、それが現実 9
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