幕間〜第一幕〜
残業が終わって、夜遅く家に帰り着いたアスマは家の鍵を開けようとして気がついた。
鍵がねえ・・・。
それから愕然となる。
財布もねえ!
鍵は財布に入れていた。
キーホルダーも何もつけていないから財布の小銭入れの場所に裸で入れていたのだ。
財布の定位置はスーツのズボンの後ろのポケットだった。
確か、電車を降りて駅の改札を出たところまで在ったのは記憶している。
慌てて着ているスーツのジャケットやズボンを探った。
「ほんとにねえのかよ・・・。」
アスマは珍しく焦る。
仕事で疲れて帰ってきて、やっと家に着いたと思ったのに鍵がなくれ家に入れないばかりか財布までもない。
「おいおい、うそだろ・・・。」
自分の全身を汲まなく探して財布も鍵もないという結論に達するとアスマは全身の力が抜けた。
「今、何時だと思ってるんだよ。」
時間は、もうすぐ深夜零時を過ぎる。
これから駅に行き財布と鍵の落し物がないか尋ねて、それから交番に行き落し物の届けをして、それからクレジットカードが多数入っているのでカード会社の電話して・・・。
考えると眩暈がしてくるアスマである。
「あー、畜生、ついてねえ。」
ついつい、乱暴な言葉も出てしまう。
「くそー、どうすりゃいいんだ。厄介なことになっちまったぜ。」
自分の家の前で溜め息を吐いていると、そこへ何やら人の気配がした。
アスマの家の周りを、うろうろとしているらしい。
今のアスマは機嫌が悪い。
「おい、誰だ?そこにいるのは?出て来い。出て来ないなら不審者として通報するぞ。」
すると暗闇から、おずおずと現れた者がいた。
長めの黒髪を頭の天辺で結った青年である。
顔には薄っすらと横に走る傷があった。
「あのう、これ。」
青年は手に持っていた物を差し出す。
「これ、駅で落としていましたよ。慌てて後を追っかけたんですけど、あなたの歩くのが早いのと暗がりで見失ってしまって・・・。」
「ああっ!」
青年が手にしていたのは今、まさにアスマが探していた財布であった。
アスマは受け取ると財布の中を見て、自分の家の鍵があることを確認した。
「ありがてえ。いや、助かったぜ。」
アスマは青年に何回も礼を言う。
「本当にありがとうな。これがなかったら、家に入れないところだったんだ。ありがとうありがとう!」
アスマに礼を言われて青年は笑顔を浮かべた。
その笑顔を、少し幼い。
「そうですか、なら良かったです。」
青年は、ぺこりと頭を下げると「じゃあ、これで。」とあっさり立ち去ろうとする。
「ちょっと待った。」
アスマは青年を呼び止めた。
「ここから駅まで随分と距離があるのに、わざわざ届けてくれるなんて本当に感謝しているし夜遅くにすまないと思っている。だから・・・。」とアスマは続けた。
「予定がないなら、ちょっと上がって茶でも飲んでも行かないか。」
そう言った。
「いえ、俺はそんなつもりじゃ。」と青年は慌てて手を横に振る。
「予定でもあるのか?」
アスマが訊くと青年は「これから家に帰るだけです。」と律儀に答えた。
「じゃあ、いいじゃねえか。」
「いえ、でも。」
アスマと青年が押し問答を始めたとき、どこからか腹の虫が鳴く声が聞こえてきた。
青年の腹が鳴ったのである。
「えーと、あの。」
真っ赤になった青年は恥ずかしかったのか、アスマの前からダッシュで逃げだそうとした。
しかしアスマの方が反応が早い。
アスマは青年の手首を掴み、逃げ出さないように後ろ手に軽く捻りあげる。
「腹が減っているのか?」
訊くと青年は小さい声で「先立つものがなくて。」と呟いた。
十分後。
アスマと青年は、アスマの家の中にいた。
「さあ、食えよ。・・・と言っても昨日の夜、作ったカレーだけどな。」
そう言ってアスマは自分と青年の分のカレーを器に盛る。
青年は「いただきます。」と手を合わせると美味しそうにカレーを食べた。
実に美味しそうに食べるので、深夜に食べるカレーも悪くないと思ったアスマである。
食べ終わるとアスマは茶を出した。
「ありがとうございます。」
青年は丁寧に礼を言い、茶を飲んだ。
「ただ、財布を届けただけなのに。ご馳走になってしまって。」
「いや、こっちこそ。世話になっちまって。」
アスマは、ちらと時計を見ると気になっていたこと訊いた。
「見たところ、あんた、未成年みたいだが、こんな時間まで何してるんだ?」
初対面の相手に訊くことではないのかも知れないが、目の前の青年には人懐こさと真面目で善良な雰囲気が漂っており気になってしまったのである。
それ故にアスマは初対面の相手にも関わらず家に上げてしまたのであった。
目の前の青年は微かに眉と潜めると静かに言った。
「大学で勉強してからバイトを探していたら、こんな時間になってしまったんです。」
「バイト?大学生だったのか。」
高校生だと思った、ということはアスマは、とりあえず心の隅に仕舞う。
「はい。」と青年は頷いた。
「ちょっと諸事情で今までしていたバイト辞めてしまったので・・・。」
穏やかな顔で言うのに、どこか寂しそうに見える。
「ふーん。」
アスマは青年に断ってから煙草に火を点けた。
「学生なのに色々大変なんだな。誰か頼れる人はいねえのか?」
何気なく訊いたのだが青年は黙ってしまった。
目が伏せられて、引き結んだ口元は何かを耐えているように思えた。
「悪い、変なこと訊いたか?」
「いえ、いいんです。」
アスマが謝ると青年は首を振る。
「頼れる人はいて一緒に暮らしていたんですけど・・・。」
茶の入った湯飲みを持つ青年の手に力が入った。
「実は、その人の家を出てきてしまったんです。」
「なんでだ。」
単純に不思議に思ってアスマは訊く。
「その人、すごくいい人で・・・。」
青年は俯いた。
「俺に好意を持ってくれて最初は変な人だと思ったんですけど、だんだん惹かれていって多分、俺もその人のことが好きなんだと思うんですけど・・・。」
黙ってアスマは訊いていた。
「でも、その人、ちゃんとした社会人で会社に勤めていて一緒に住んでいると、そのことがひしひしと伝わってくるんです。俺は学生で金がないし経済的に負担をかけてばかりで。」
青年は気を落ち着けるためにか一口、茶を飲んだ。
「好きだと言われても、でも。」
青年の声はアスマが訊いても分かるほど哀しい響きを持っていた。
「俺は、相手のことが好きだという気持ちの前に対等ではないという引け目や負い目をすごく感じて、結局、その気持ちに自分で勝てなくて。」
青年は、ははは、と力なく笑う。
「辛くなって必要分を差し引いた有り金全部置いて、家を出てきてしまったんです。」
アスマは無理して笑う青年の笑う顔を見て、なんとなく胸が痛んだのだった。
途方に暮れたような青年の表情にアスマの胸は痛み、自然と伸びた手が青年の頭を、がしがしと聊か乱暴に撫でた。
「まあ、そんな、しょげるな。元気出せ。」
何の根拠もなかったが、そう言ってみる。
「すみません、ありがとうございます。」
青年は、初めてアスマの前で笑みを浮かべた。
「突然、こんな話をしてしまって、こちらこそすみません。」
ぺこり、と頭を下げる。
「いや、俺こそ余計なこと訊いちまったな。」
「いいえ。」
「でもよ、その相手は、そのこと知っているのか。その、あんたの心の内を。」
今さっき、余計なことを訊いたと言ったばかりなのにアスマは再び余計なことを訊いてしまった。
「いいえ。」
青年は首を振る。
「何も言わずに、その人が出張に行っている時に逃げるように家を出てきてしまって・・・。」
「それから連絡してないのか?」
気まずそうに青年は頷いた。
「じゃあ相手は、あんたのこと心配しているんじゃねえのか。」
お節介と思いつつもアスマは言ってしまう。
「好きな相手に突然、何も言わずに出て行かれてたら驚くし傷つくぜ。」
「そうですよね。」
青年は唇を噛む。
「俺も、そう・・・、そう思います。だから、会いたいと思っても会いに行けませんし、せめて電話でもと思っても・・・。」
後ろめたくてできないのだろう。
そんな様子の青年を眺めてアスマは言った。
「真面目だなあ。」
本当に、そう思ったのだ。
「今時、真面目すぎるぜ、あんた。」
もう一杯茶を注いでやりながらアスマは青年を見る。
第一印象は真面目であったが、それは当たっていたようだ。
「真面目に考えすぎて身動きとれなくなってんじゃないのか。」
肩の力を抜け、とアスマは青年の肩を軽く叩く。
「自分で自分を雁字搦めにしてるように見えるぜ。」
「・・・そうでしょうか。」
青年は頼りなさげな目でアスマを見た。
「そうだぜ。」
アスマは青年を元気付けようとした。
「会いに行きたくなったら行けばいいじゃねえか。電話したかったらすればいい。自分に素直にならなけりゃあ、後悔するかもしれないぜ。」
柄にもなく、そんなことを言ってしまい、言ってしまった自分に恥ずかしくなるアスマだ。
青年の話を聞いていて、何だか自分も若くなったように錯覚してしまったのだ。
若いゆえに悩む青年に気持ちがシンクロしてしまった。
青年は帰り際にアスマに丁寧に礼を言った。
「財布を届けただけなのに食事もご馳走になってしまい、相談にものってくださってありがとうございました。」
「いや、こっちこそ、すまなったな。」
それでは、青年が去ろうとした時アスマは声を掛けた。
「おい!」
青年が振り向く。
「困ったことがあったら、いつでも来いよ!」
微笑んだ青年は頷いて夜の闇に姿を消した。
それを見送ったアスマは、名前を聞けばよかったな、と少し後悔したのだった。
次の日、会社でアスマは紅に昨夜あったことを話して聞かせた。
「ふーん、今時、そんな真面目が子がいるのねえ。」
感心したように紅は呟く。
「それに、そんなに健気に別れた相手のことを想っているなんて純愛じゃないの?」
いいわねえ、と、うっとりと紅は目を瞑った。
「私も、そんな子に会ってみたいわ〜。」
会社で、ちょっと夢見ている。
「それに、その子の相手って社会人、つまり年上の人なんでしょう?」
「ああ?そうなるな。」
「年上の人を虜にするなんて、やるじゃない。」
恋愛の話になると紅は目を輝かす。
「そうえいば、そうだな」
気づかなかった点を指摘されてアスマは腕を組む。
「相手は年上なのか・・・。」
そんな話をする二人の横をカカシが通りかかった。
「ちょっと、そこの二人!仕事しろ!」
眉間に皺を寄せた怖い顔になっている。
「分かっているわよ。昨日、アスマが面白いことがあったって言うもんだから話を聞いていただけよ。カカシも聞く?」
「あ、そう。俺は結構。」
カカシは、やつれていて何だか機嫌が悪い。
紅は、ひそとアスマに囁いた。
「天使ちゃんがね、家を出て行っちゃったらしいのよ。」
「ふーん、失踪か?」
「違う、家出だ!すぐに帰ってくるよ、きっと!絶対!」
紅とアスマの会話を耳に入れたカカシが、すかさず訂正する。
「ちょっと俺が出張に言っている時に寂しくなって・・・。だから、ちょっと家出してるだけなんだ!」
「それが家を出て行くってことでしょう。」
紅が呆れたように言うとカカシは強く首を振る。
「そんなことない、きっと帰ってくるんだって。きっと!」
半ば自分に言い聞かせるように言っている。
「へええ、大変なんだなあ。」
詳しい事情は解らないがカカシが傷心して落ち込んでいるのはよく分かった。
そして、アスマは出張の時に家を出て行った、というカカシの言葉に何かが引っかかったのだが、それを何なのか思い出すこともカカシに問い質すこともできなかった。
仕事に忙殺されて、いつの間にか忘れてしまったのだった。
暫しのお別れ
幕間〜第二幕〜
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