河の魚
カカシが真夜中、任務から帰還し里の外れに流れている河の橋の上を渡っている時、音がした。
ばしゃばしゃ、と水が跳ねるような音と、ざばざば、と水を掻き分けるような音である。
有り体に言えば、河の中で誰かが泳いでいるような、そんな水音であった。
十月に入り、涼しくなってきた時期に、それも夜中に泳ぐなんて酔狂なやつだ、とカカシは橋の上から河の中を覗き込んだ。
夜の闇の中でも、忍であるカカシの目には関係ない、夜目がきくのだ。
敵ではないか、と一瞬、思ったものの、河の中から殺意も敵意も感じない。
河の中にいる者は、ただ只管、泳ぐことを楽しんでいる風である。
河の中を覗き込でいるカカシの目には人の形が見えていた。
やはり、誰かが河の中で泳いでいるらしい。
暫く、すると水音は止み、川縁に上がってくる気配があった。
河で泳ぐのが終わったらしい。
散々、泳いで楽しんだのは、河から上がってきた者は、ひどく上機嫌なようで橋の上のカカシにも、その気配は伝わってきた。
ぽたり、と上がってきた者の服の裾から水滴が垂れた。
また、ぽたりと髪からも水滴が垂れる。
髪は黒髪で、肩より少し長く、闇夜の中で細い月の光に照らされて、艶やかに輝いていた。
服は、どうやら、着物ような形のもので、あれは夏によく着る浴衣の類ではあるまいか。
その証拠に服の模様は朝顔があしらってある。
淡い色合いの生地にあしらってある、朝顔は独特で自然界にはない色で描いてあった。
その浴衣の柄に、ふとカカシが既視感を覚えた時、河から上がってきた者が、何かの拍子に橋の方を見た。
橋の上のカカシに気がついて、驚いたように両目を開く。
丁度、雲の切れ間、カカシの頭上に来た月が辺りを煌々と照らした。
「イルカ先生!」
河から上がってきた者の顔が、はっきりと月の光に映し出されてカカシは叫んでしまった。
河の水で、ぐっしょりと濡れた姿の人物はカカシのよく知る人であったのだ。
アカデミーの先生で受付け所でも働いて、火影の仕事もサポートしていて、仕事に情熱を注いでいて、笑顔が優しく温かく、同性であることを承知の上で惹かれてしまう人である。
いつも頭の天辺で結っている髪は今は解かれて、服装も忍服ではなかったがカカシが間違うはずがない。
だって、ずっと恋焦がれていたのだから。
恋する切っ掛けは忘れてしまったが、随分、長いことカカシはイルカのことを想っていた。
そんな相手を見間違うなど有り得ない。
それに浴衣の朝顔の模様は今年の夏、イルカと一緒に夏祭りに行った時にイルカが来ていた柄であった。
河の中で、何故、真夜中、人目を忍ぶようにしてイルカは泳いでいたのだろう。
何か理由があるに違いないが、検討がつかない。
「イルカ先生!」
カカシは、もう一度、叫んだ。
なぜならば、川縁に立つイルカの姿が、どんどん薄くなっていくからだ。
カカシを見詰めたままの姿のイルカは、そのまま、体の輪郭が薄くなり、遂には、その場から姿を消してしまった。
「イルカ先生・・・。」
名前を呼んでも返事はない。
影も形もなくなっていた。
自前の写輪眼を使い、念のために周辺を探ってみたものの、術を使われた形跡もなく、イルカが消えた原因は解らず仕舞いであった。
しかし、イルカいた証拠に河から上がって水滴らせていた場所は濡れている。
何だったんだろうか?
カカシには答えの出ない謎の現象であった。
次の日、見かけたイルカは普段通りで、カカシにもいつものように挨拶をしてきた。
昨日のことなど、綺麗さっぱり覚えていないように。
思い切ってカカシは言ってみた。
「イルカ先生。」
「はい、何でしょうか?」
にこ、と小さく笑って聞いてくるイルカに、カカシは、ちょっと、くらくらしてしまう。
可愛い、なんて思ってしまう。
そんなことを考えているカカシは全く、別のことをイルカに言っていた。
「今夜、飲みにでも行きませんか?」
「いいですよ。」
イルカは気軽に了承してくれた。
「本当ですか!」
有頂天になったカカシは時間と場所をイルカと約束して、肝心なことを聞くのを忘れてしまっていたが、余り気にしていなかった。
真夜中、イルカが河で泳いでいようとも想いが、草簡単に変わるわけではない。
イルカにもイルカの事情があるわけだし、いつか話してくれれば。それでいい。
そういう風に考えて始めていた。
だが、酒の席でカカシは失敗してしまった。
想っているイルカと酒を飲み、ほろ酔い加減になってしまったカカシは、偶々、酒の肴に頼んだ胡瓜をイルカが食べているのを見て、失言してしまう。
「イルカ先生、胡瓜好きなんですか?」
カカシは、ほろ酔いよりも、もう少し酔っ払っていたのかもしれない。
それで、想いを寄せているイルカと二人だけで飲みに舞い上がっていた。
イルカは、微かに体を強張らせる。
「えーと、そうでもないですけど。普通かな。」
「そういえば、河童って胡瓜が好きですよね。あ、俺、実は昨日の夜、見たんですよ・・・。」
「昨日の夜?」
「イルカ先生が河で泳いでいるところを。」
ずばり、カカシは言ってしまった。
「昨日の夜は、家で寝ていましたけど・・・。」
イルカは、不思議そうな顔をしている。
「でもね、俺、見ちゃったんですよね。」
カカシは声を潜めた。
「真夜中の河でイルカ先生が泳いでいるのを。」
何も答えず、イルカはカカシの話を聞いている。
「楽しそうに泳いでいて、川から上がってきたら、橋の上の俺の姿を見て、びっくりしていたでしょう?」
イルカは無言でいた。
「でも、その後、消えちゃって俺の方が驚きました。」
あれはどうやったんですか?とカカシが何気なく聞くとイルカは哀しげな顔をした。
「見てしまったんですね、カカシさん。」
声も切ない響きを持っている。
「見られてしまったのなら、俺はもう、河に還らなければいけません。」
「・・・え。」
どこに?と言う暇もなく、目の前のイルカの姿は昨夜と同じように、薄く霞んで消えていく。
「カカシさん、好きでした。」
「ええっ!」
そしてイルカの姿は見えなくなって、最後に一言、残された。
「それから俺は河童じゃありませんから。」
イルカが座っていた椅子は、そこだけ、ぐっしょりと濡れていた。
まるで、今しがた河から上がってきたように。
河の魚 その後
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