忘れられないあの人
イルカには忘れられない人がいた。
その人と出逢ったのは中忍試験を受ける前だったのでイルカが随分と若かった頃だ。
出逢った状況が、また特殊であった。
下忍として部隊で任務に就き、それなりに頑張っていたのだが如何せん力不足、経験不足で判断を誤り窮地に陥ってしまった。
怪我をして動けず、毒も受けて解毒剤もなし、仲間とも逸れて助けも呼べず、ここで死ぬのかと荒い息を吐きながら思ったものだ。
やりたいこともたくさんあったのだが不思議と死に対して恐怖はなかった。
ここで死ねば先に逝ってしまった両親に会えるかもしれないなどと考えてしまっていたから。
もうすぐ中忍試験だったので、それだけは受験したかったなあ、と朦朧とする意識下で心残りを呟いた。
そしたら声がしたのだ。
「受験すればいいでしょ、中忍試験」
声と共にイルカの体が地面から浮き上がった。
「あー、毒も受けちゃっているのね〜」
ちょっと待って、と言われ一旦、地面に下ろされた。
そうっと丁寧に壊れ物のように。
ごそごそと音がして、がさがさと音がする。
「はい、口を開けて。大丈夫、解毒剤だから」
イルカの意識は朦朧としているものの、相手の言うことは理解できたので言われた通りにしようと思ったのだが体が言うことを利かなかった。
その間にも意識は更に混濁していき、開いている目の視界が暗くなってくる。
荒い息も細くなった。
「げ!」
相手は慌てたようだった。
「やばいでしょ、これは」
言葉は焦っているが声は焦っていない。
「しょうがないな、もー。ちゃんと飲みなさいよ」
イルカの頭が抱きかかえれて、口に何かが当たったと同時に液体が流れ込んできた。
液体を、ごくりと嚥下すると体が楽になったように感じた。
そして急激に眠気が襲ってきた。
「いいよ、寝なさい」
優しい声がした。
「安全なとこまで運んであげるから」
その声に身を任せて目を閉じた。
目が覚めた時には木の葉の里の病院のベッドの上にいた。
イルカは助かったのだ。
それから無事に中忍試験を受験し、無事に合格を果たして中忍になったのだった。
「で、その人に助けてもらったことを思い出すと辛くても苦しくても、いつも頑張れるんです」
せっかく助けてもらった命ですので、とイルカは力強く言い切った。
多少、酔いの勢いもあっただろう。
「ふーん、そうなんですか・・・」
イルカが中忍試験の前にあったことを、つい最近、親しくなったカカシに話したところ興味なさそうに返事を返された。
場所は飲み屋。
親しくなった間柄なので二人で飲みに来ていた。
「イルカ先生、今でもその人のこと忘れられないの?」
質問には棘があったような気がした。
「はい、俺の命を助けてくれた人ですから」
「ふーん」
明らかに面白くなさそうな顔をカカシはしている。
「命を助けてくれた人、ねえ」
視線を逸らして明後日の方向を見てしまった。
「あの、カカシさん?」
カカシは不機嫌なようだった。
いつもは気さくで飄々としているカカシが感情を表に出すのは珍しい。
しかし、その不機嫌さに中てられてしまったイルカは、どう対処すればいいのか分からなかった。
親しくなったと言っても知り合って、まだ日が浅い。
カカシには、まだまだイルカには未知に部分が多数ある。
もしかして今の話の何かが、そのカカシに未知の部分のどこかに障ってしまったのかもしれない。
謝った方がいいのだろうか、イルカが迷っているとカカシが明後日の方向から視線をイルカに戻してきた。
身を乗り出してくる。
「ねえ、イルカ先生」
カウンター席に並んで座っていたので自然、カカシとイルカの体はくっ付いた。
カカシは耳元で囁いた。
「そんな人、忘れてしまいなさいよ」
「え・・・」
「昔のことでしょ、相手だって忘れていますよ、イルカ先生のことなんて」
「それはそうですけど・・・」
そんなことは何回も考えた。
助けてもらったことを覚えているのはイルカだけで、相手はとっくの昔に忘れているだろうと何回も考えた。
でも、そういうことじゃない。
「相手が忘れていてもいいんです、俺は覚えていますから!」
イルカが目覚めた時には相手はいなかったし、見舞いにも一回も来なかった。
誰が助けてくれたのかは判らず仕舞いだったけれども。
「でもねえ」
カカシは言い募った。
「そんな薄情な男のことなんて忘れてもいいじゃないですか」
助けてもらったことに感謝して、それで終わりでしょ、と。
ふるふる、とイルカは首を横に振った。
「そんなことないです」
助けてもらった恩は、いつか返せる日が来るかもしれない。
だから覚えていたい。
「それに」
イルカはカカシに訂正を入れた。
「助けてくれたのは男の人ではなくて女性ですよ。くの一の方です」
ゆらり、とカカシの体が揺れたような気がしたのは気の所為か。
次いでカカシが頭を抱えてしまったのだが理由は分からなかった。
昔、人を助けたことがあった。
若かりし頃だ。
同じ里の忍びである。
見た目は若いというよりも幼かった。
まだ下忍なのであろう。
傷ついて動けず血を流していた。
目が虚ろで焦点が合っていなくて様子がおかしかった。
抱き上げると毒を盛られているのが分かったので、手持ちの解毒剤を飲ましてみた。
自力では飲めないようであったので口移しで。
不思議なことに同性だったが嫌悪感は沸かなかった。
解毒剤を飲むと若い忍は薄っすらと微笑んで眠りに落ちてしまった。
くたりとした体をカカシに預けて何の心配もないように。
ひどく印象的だった。
通りがかりに偶々、助けてくれた人をあっさりと信じて身を任せてしまうことに。
しかもカカシは実は道に迷った末に傷ついたイルカを見つけたのだ。
カカシもカカシで任務を受けていて、その帰り道で。
慣れない場所で道に迷って困っていた。
カカシは、その頃、既に上忍になっていたので道に迷うなんて恥かしくて言えなかった。
いや言うことが出来なかった。
自分の現在地を把握していないなんて有るまじきことだ。
しかもイルカの独り言、中忍試験云々が聞こえて人がいる、これで道が分かると喜んだなんて。
もちろん、血の匂いも感知していたけれど、まさかイルカが死にそうだとは思わなかった。
その後、適切にイルカの応急措置を施して里に連れ帰り病院に入院させた。
道に迷ったことは里に式を飛ばして時に現在の位置を知るために正直に話している。
カカシにとって道に迷ったというのは失態の一つで忘れたい出来事だった。
イルカに出逢えたのを別にすれば。
それから任務で忙しくてイルカを気にかけながらも見舞いにも行けなかった。
せめて見舞いの品だけでも言付けしたかったが里にも帰れなかった。
あっという間に数年が経ち、里から召還命令が来て帰還するとイルカがいたのだ。
少年の面影は残っていたが立派な青年になっていた。
一目で、あの時、助けた忍だと確信した。
しかしイルカはカカシのことが誰かは判らなかったようで初めて会った時、まるで初対面のような挨拶をされてしまった。
「初めまして」と。
挨拶に付随してきた笑顔を大変、魅力的であった。
忘れられてしまったことは悲しかったが仕方ないのかもしれない。
助けた時のイルカは傷ついて毒を盛られて意識朦朧としたのだから。
忘れていたとしても責められない。
カカシとしても見舞いに行かなかった負い目もある。
このまま、黙っていようと思ったのだが・・・。
ある日、何かの拍子にイルカから忘れられない人がいると聞かされて心臓が音を立てた。
もしかして、自分のことかもしれない。
どきどきして眠れぬ夜が続いてカカシは決心した。
イルカに訊いてみようと思い立ち、飲みに誘ってみた。
この頃にはイルカとは、かなり親しくなっていて二人で食事や飲みに行ったりも何回かしていた。
それに酒の席は口が軽くなる。
カカシの思惑通り、イルカは忘れられない人について詳しく話してくれた。
概ね、カカシの覚えているのと同じ内容で、ほっとした。
イルカは、とても優しい顔をして言ったのだ。
「その人のことを思うといつでも頑張れます」
まるで恋でもしているように。
顔は、きらきらと輝いていた。
ならば、それがカカシだと言ってしまえば良かったのだが、それにはプライドが邪魔をする。
道に迷った末にイルカ先生を発見しました、と告白する必要がある。
それにイルカは大きな勘違いをしていた。
「助けてくれたのは女性です」と言い切った。
どこをどう解釈したのか、イルカは助けて人の性別を勘違いしていた・・・。
助けてくれたのは男ではなく女だと思っている。
そうしてカカシは頭を抱える羽目になったのだ。
どこから訂正しようかと。
カカシはイルカに会うまでイルカの事を任務の合い間合い間に気に掛けていた。
忘れられなかったのはカカシも同じだった。
暇さえあればイルカのことを考えていたのだ。
怪我は治ったのか、退院したのか・・・。
退院して食事はしているのか、また任務で怪我でもしてないか。
イルカの事を考えることでカカシも任務が頑張れたと言っても過言ではない。
心の隅ではイルカに、いつも会いたいと思っていた。
その会いたいと思う心の正体には目を瞑ってきた。
やはり同性に対しては僅かながら抵抗があったのだ。
そんなものはイルカと再会して霧散してしまったが。
その心の正体はイルカに再会することではっきりを判明し、少しずつあたためた。
仄かな恋心を。
「あー、どうしようかなあ」
飲んでいたイルカと別れて家に帰ってきたカカシは一人考える。
今日の話で仄かな恋心は一気に育って仄かではなくなった。
「なんか、こう上手いことイルカ先生に昔のことを忘れさせて今の俺を注目させる方法はないものか・・・」
悪巧み・・・ではなく可能性を模索している。
直球でイルカに忘れるように言ったのだが拒否されてしまったし。
忘れるのは拒否されたが次の約束は取り付けてきたので抜かりはない。
「うーん、どうすればいいかな・・・」
どうするも何も素直に総てを告白すればいいだけのことなのに。
カカシも、まだまだ若いのかもしれない。
恋に臆病になっている。
忘れられないあの人が手の届く距離にいるというのに。
すぐ近くにいるのに。
カカシの恋が実るのは、いつになるのかは誰にも分からなかったのであった。
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